Personnel Position

人事のすがお

人事インタビュー「人事のすがお」vol.1 

  • ノーベルファーマ株式会社

    池田 昭 様

    1953年8月生まれ(68歳)。

    一橋大学商学部卒業後、川崎重工業株式会社、京セラ株式会社を経て、台糖ファイザー株式会社(現ファイザー株式会社)にて人事統括部長。

    2010年より、ノーベルファーマ株式会社にて人事総務領域を担当。

    2020年末に67歳で勇退後も、同社で人事総務の採用業務等の一端を担当する傍ら、個人事業主としても人事総務関連のコンサル業務に従事。

    趣味はゴルフ。スポーツジムに通うかたわら、テニスや囲碁もたしなむなど、趣味も多彩。横浜市青葉区在住。

    [ 取材: 2022年2月 ]

  • 人事インタビュー「人事のすがお」vol.1 
四分一:早速ですが、池田さんのこれまでの人事歴を含めたご経歴をお聞かせください。
池田:

◆ 1977年~ 大学卒業 → 3社目の転職でファイザー入社

私は1977年(昭和52年)に大学を卒業し、それから5年ほどの期間で2社に勤務しました。重工系の会社と、半導体系の会社です。その時は国内営業や海外営業(当時のテレックスを使い、アメリカの現地社員との受発注等各種業務のやり取り)などを経験し、1982年に台糖ファイザーに入社しました。私はMR(医薬品の営業)の経験がなかったので、ジェネラルなマーケティングサービスの部署に配属され、4年ほど在籍しました。

◆ 1986年~ 国際大学大学院(IUJ:大学院大学)に留学

その後、ファイザーとして初めて、国際大学という大学院大学(事務局注:日本初の大学院大学、公用語は英語の全寮制、1982年新潟に発足)に会社派遣留学するチャンスを得ました。既に子供も2人いたんですが、学内の単身寮に入り、2年間お給料を頂きながら、実りの多い楽しい学生生活を送りました(笑) キャンパスのある浦佐は、大学の周囲も一面田圃だらけで、町の周囲は山に囲まれた自然溢れるところでしたので、授業がない時はテニス、冬はスキーなどを満喫しました。東京育ちの自分にとっては、とても素晴らしい環境でしたね。

◆ 1987~88年 3ヶ月のアメリカ縦断フィールド・リサーチ

在学中フィールド・リサーチで3ヶ月ほどアメリカに行くチャンスをもらい、自分で全てプランを立ててアメリカを縦断しました。その時、親会社のファイザー社だけでなく、IBMやハインズ、レイセオンなどの企業の人事責任者に手紙を書き、「ぜひ会って話を聞かせてほしい」とアプローチしたところ、さすがアメリカ、30~40通手紙を書いたら、半分ぐらいの会社は「どうぞ」って言ってくれたんです。どこの馬の骨ともわからない人間に貴重な時間を割いてくれたことには、アメリカの懐の深さを大いに感じましたね。英語に関しては留学前にある程度のTOEFLの基準には達していたのですが、海外駐在経験はなかったので、最初は大変苦労しました。初めての海外渡航で、最初に到着したサンフランシスコのバスの中で、スペイン語訛りの英語を使う運転手に話された時には、何度聞いても全く分からず、困っていたら標準的な英語を話す乗客が通訳?してくれて、やっと理解できました。このような経験を経て、アポが取れた20社くらいを訪問し、何とか卒論として纏めることができました。もちろん、卒論も英語による執筆でした。

◆ 1988年~ IUJ卒業後、経理部門に(初のライン役職)

国際大学を卒業後、経理の責任者から誘われまして、経理の予算管理課という部署に入りました。1年半ほど在籍した頃、ファイザーが初めてテレビコマーシャルを打って一般用医薬品の販売を行うことになり、一般用医薬品部門の予算管理課長というライン課長職を初めて経験しました。37歳の時です。そこで2年間勤務した後、本社の経理課長として4年半を過ごしました。

◆ 1996年~ 新しい経理システム導入プロジェクト

1995年頃から、グローバル全体で「コンピュートロン」という経理システムを新たに導入することになったんです。そのシステムは当時まだ日本では殆ど使われておらず、各種資料も英語版しかなかったのですが、その中で、私が導入プロジェクトのリーダーになりました。私の他に、NY本社の経理部門の部長と、オーストラリアのコンピュートロン社の技術者(いずれも外国人)が日本に駐在し、この3人がプロジェクトの中心メンバーになり、2年かけて導入に漕ぎつけました。この2年間は本当に楽しかったですね。彼らと共にたくさんの日本人スタッフも巻き込んだプロジェクトで、苦労も多かったですが、本当に貴重な経験でした。日米豪の文化の違いを痛感しながらも、時には食事会や飲み会を開催しながら、お互いに議論し合い、理解し合いながら、真剣にプロジェクトを進めることができました。

◆ 1998年~2010年 人事との出会い

無事に経理システム導入を終えた頃、以前から希望していた人事の仕事に就きたいという思いが強くなり、自ら異動の希望を経理部門の責任者に出しました。それが良いきっかけとなり、最終的に人事部門への異動が叶いました。それが初めての人事の仕事で、45歳ぐらいの時ですね。最初は担当部長でスタートし、途中から人事企画部長というラインの役職になったのですが、私はいわゆる”人事のたたき上げ”ではなかったので、労務関係や給与関係などの経験がありませんでした。それが自分の弱みだと感じ始めた中で、その後、これから述べる幾つもの大きな仕事を経験しました。

◆ 心に残った仕事 その1 「コンピテンシー評価制度の導入」

まずは、新しい評価制度、当時流行っていたコンピテンシー評価制度の導入です。これは、日本独自に導入したもので、グローバル本社の見本はありませんでした。しかも、人事に異動して初めての大きなプロジェクトであり、細かいことを自分が理解していなかったので、プロジェクトメンバー等の多大なサポートを得ながら、何とか導入に至りました。

◆ 心に残った仕事 その2 「部門人事の責任者時代」

ファイザーでは大きな部門ごとにそれぞれ人事部があったんですが、2001年にNYの臨床開発部門本社から、私に対して、臨床開発部門の立て直しミッションの白羽の矢が立ち、臨床開発など全くわからない状態の中で開発部門の人事部長になりました。48歳の時です。結果的にそこで6年近く過ごしましたが、部門のトップから依頼されたのが「働き甲斐のある職場作り:Great Place to Work」でした。その頃部門内のチームワーク、雰囲気が停滞気味だったため、もう一度全社員がゼロベースで議論しながら職場の改善を図っていこうという取り組みを推進しました。私と人事マネージャーが中心となり、各部署から優秀な若手管理職社員等をピックアップして、いろいろな企画を進めていきました。当時、臨床開発部門には400名ぐらいの社員がいたのですが、このプロジェクトの最後の仕上げの時には、部門社員全員でハワイへ行くという盛大な打ち上げを行うことができました。よくこんなことができたなと、今でも思います(笑)。部門長がNY本社に掛け合って、予算を調達してくれたんです。他の部門からも大変羨ましがられました。

◆ 心に残った仕事 その3 「人事サービスセンター立ち上げ」

21世紀にはいると、特にグローバル製薬企業では、従来のように人事や経理の部門を各国に置いて業務を行うのではなく、例えばアジア地域では、中国やフィリピンなど、どこか1ヶ所でまとめてオペレーション業務を行うという取り組みが各社で進められていました。そんな中、ファイザーの人事部門でも人事関係のオペレーション業務を処理する「人事サービスセンター」 を立ち上げることとなりました。実は2000~2010年の僅か10年間で、ファイザーは他のグローバル製薬企業との統合・合併(M&A)を3回も実施しました。即ち、2003年にワーナーランバート(医薬品のパークデービス等)、2006年にファルマシア、更に2008年にワイスの買収・統合を行う中で、企業規模は大きくなるが、人員やオペレーション業務等は効率化せねばならないという大きな課題が生じていたんです。

◆ 2010年 ファイザー退社 → ノーベルファーマ社へ

上記、人事サービスセンター業務の途中で人事企画統括部長になり、その後、人事組織の効率化推進グループの部長を最後に、2010年にファイザー社を退職しました。そして、2010年から現在も籍を置くノーベルファーマ社に転職しましたが、入社後、最初は営業管理部長兼人事総務部長として勤務し、その後2012年からは専任の人事総務部長となりました。2020年までは執行役員‐人事総務部長のポジションでしたが、2021年1月からは業務委託社員として人事総務関連の一部の業務を請け負っています。この10年あまり、私が入社した時には60人くらいの従業員数でしたが、今では400人近い規模の会社に大きく成長しました。

◆ 2022年 現在の仕事について

もともと、ノーベルファーマ社は新卒採用を行っておらず、中途採用と一部出向受入れにより、社員を補充しています。その中で、私はその中途採用の面接、並びにポスドク・博士課程研究者の採用を主に担当しています。
四分一:池田さんが最初にファイザーに移られた頃、ファイザー・ジャパンはどれぐらいの規模だったのですか?
池田:確かに、当時はまだまだ小さい会社でしたね。具体的な従業員数は記憶していませんが、売上規模で言うと製薬会社の国内売上げでは23~4番手だったと記憶しています。世界の売上げでも8番から10番目ぐらいだったのではないでしょうか。まさか、こんな世界一の医薬品メーカーになるとは(笑)。 私が入社した頃は「台糖ファイザー」という合弁企業で、日本的な、良い意味でのんびりした会社でとても働きやすかったです。その後、私が入社して7~8年ぐらいしてファイザー100%の企業になりました。ファイザー100%になった後も、しばらくは社名も変更せず、日本的な雰囲気のままでした。当時、アジアのマネジメントセンター(AMC)が香港にあり、アメリカ本社からまずそのAMCに話が来る、そこから日本にという1クッションがありました。日本からも一旦香港のAMCを経由して本社に…という流れだったので、日本ファイザーの日本特殊論を受け入れてもらえたんですね。「そんなこと日本の税制じゃ無理ですよ」とか「それ、日本の厚労省じゃダメですよ」とか(笑)。その後、NY本社との関係がダイレクトに変更されると、「なんで日本だけ特別なんだ?」「他の国もみんなやっているのに、なんで日本だけできないんだ」となるわけです(笑)。但し、このようなグローバルの組織変更によって、否応なく日本のグローバル化が進んだという点は否定できませんね。
四分一:日本と海外の人事のシステムの違いはありましたか?
池田:税制や国の法令に関わる部分はどうしようもないですが、例えば、グローバルで新しい人事制度の導入により、グローバル等級を取り入れることになった時は、NY本社のマニュアルやルールに従うことが必須でした。このように、原則として親会社のルールに則るというのは、どの外資系企業も同様な流れじゃないでしょうか。
四分一:1998年に導入されたコンピテンシー評価制度も、グローバルなものだったのですか?
池田:いいえ、これは日本独自で導入した制度です。それまでの各上司による印象評価的な側面の評価ではなく、成果に繋がるような行動を取ることができたかどうかを客観的に、公平に評価しようということで導入されました。
四分一:池田さんのこれまでの人事の仕事の中で、一番印象深い時代はいつ頃でしたか?
池田:そうですね…(熟考)。人事部門として、3回ものM&Aの中で組織や人員の見直しを進めていく中、どうやってみんなをまとめていくかという、大変厳しい経験をした時でしょうか。全体最適の制度・取組み等を打ち出していきながらも、同時に社員一人一人のための個別対応も必要になりますし…。この2000年代の10年弱の間での3回の合併が、ファイザーを離れる主な理由でした。
四分一:池田さんは人事に移られたのが40代半ば、しかもいきなり役職者ということで、こうした実務からのたたき上げでないパターンは、他の企業でもよくあります。例えば、これまでずっと営業だったのに、いきなり人事の責任者になれ…とか。池田さんのご経験から、同じような立場の人事の皆さんに、何かアドバイスはありますか?
池田:先ほどGreat Place to Workの取り組みの経験の中でもお話ししましたが、単に働きやすい職場というより、真の意味で働き甲斐のある職場作りということを、常に頭に置きながら業務に当たってきたつもりです。会社の制度・仕組み、組織や給与の見直しなど一連の取り組みは、最終的に「1人1人の社員がモチベーション高く、生き生きと働くことができるか」という視点での検討が不可欠であると考えています。
このような考え方、スタンスで、常に人事制度等を鳥瞰し、また部門長を含めたマネジメントとしっかりとコミュニケーションを取り、会社の方向性をしっかりと頭に入れながら、必要な取り組みを検討・研究を進めることが重要だと思います。
四分一:これからの人事について、どのようにお考えですか?
池田:昨今のコロナ禍においてはテレワークが主流になっていますが、そういった環境で社員が気持ち良く、モチベーションを維持しつつ働くことができるために、人事のきめ細かな対応が必要になっています。それともう1つ、ダイバーシティやLGBTについてです。従来だと会社が決めた一律のルールに全ての社員が従うことを要請してきましたが、今後社員の多様性に順応できるような制度・仕組みを考えていかなければならなくなり、今の人事の皆さんは大変だなと感じています。ある人にとっては望ましい制度でも、他の人にとってはそうでないケースが多々ありますので、その点をどうやって調整していくのか、どこに最適解を見出していくかが、今の人事に問われているところだと思います。そのためには、人事メンバー全員でしっかりと議論し、皆の意見を反映した形で新たな取り組み・方向性を打ち出していく必要があります。
四分一:では最後に、定年を迎えられた今のプライベートについてお聞かせください。
池田:私は既に60歳代後半になりましたが、友人たちの中では、様々な哲学書や歴史書を毎日読み耽って大変楽しいという日々を送っている方、あちこち旅行をしまくっている方、まだまだ仕事中心の方など、様々な日々を送っています。自分の場合、まだノーベルファーマ社と友人のコンサル会社に席を置いて、個人事業主として週の半分ぐらいの時間は働いております。そして、最近になり、その残りの時間をやっと自分のために使えるようになりました。昔からゴルフが好きなのですが、やっと平日ゴルフができるようになりました。あとはスポーツジムでの運動ですね。元々華奢であまり体力がなかったので、スポーツジムは30代半ば頃から毎週末に通ってきました。それに加え、今年の1月から15年ほど離れていたテニスを再開しました。メンバーがみんな70~80代なので、これなら自分も何とかやれるだろうと(笑)。月3~4回程度プレー予定ですが、皆さん上手なので、苦労しています。更に、認知症予防のために、囲碁を始めました。ファイザー社OBで囲碁をやっているグループがあり、それに参加しています。今はネット上で対戦ができるんです(笑)。 更には、近所に孫が3人おり、彼らの送り迎えや遊びも大事な日常活動です。従って、暇でやることがなくて困るような日は一日もなく、先の見えないコロナ禍でも、毎日楽しく過ごしています。
四分一:最後に池田さんの若々しさの秘訣を知ることができました! 今回は貴重なお話をありがとうございました。