Personnel Position
人事のすがお
人事インタビュー「人事のすがお」vol.3
株式会社ディリゴ
代表取締役 長谷 真吾様
1965年生まれ。1989年同志社大学経済学部卒業。
同年、戦後最大の政治疑獄と言われたリクルート事件直後の株式会社リクルート入社。年間採用予算80億円を使い偏差値60以上の高学歴新卒の採用を行う。
1995年「採用プロセスを科学する」をコンセプトに採用コンサルティング会社を設立し代表取締役社長に就任。有名大手企業を中心に多くの企業の採用コンサルティングを手がける。
1997年 日本で最初のインターネットを使った人材採用管理DBを開発。
2000年 インターンシップを活用した採用手法を確立し日本最大のインターンシップイベントの運営、インターンシップサイト「インターパーソナル」を開設。
2009年 株式会社ディリゴを設立し、米国の学術研究EQ理論をベースとした採用、教育、配属、評価、鬱などの組織における精神疾患などの分野にコンサルテーションサービスを広げる。
[ 取材: 2022年5月 ]
四分一:まずは、長谷さんの子どもの頃からのお話をお聞かせいただけますか? |
長谷:実は生まれは鳥取県なんです。父親は東レに勤務をしていて 1965年に生まれてすぐに東レの工場のあった滋賀県に引っ越しました。大学まで滋賀の大津と草津に住んでいました。 |
四分一:滋賀での幼少期、長谷さんはどんな少年だったんですか? |
長谷:小学校の時は、ちょっとだけ勉強ができて先生に気に入られていました(笑)。中学時代は、一番学校が荒れていた頃で、中学の窓ガラスがほぼ全部なかったり(入れてもすぐに割られてしまう)とか、あのころみんなそうでしたね、僕だけじゃなくて。学ランがどんどん長くなっていったかと思えば途中から短くなったりとか…そう、「今日から俺は!!」みたいな世界です。校舎の近くにあったプレハブで2000発ロケット花火をあげたらプレハブが燃えちゃった事件とかありました(笑) 母親が学校に呼び出されて、1ヶ月ぐらい自宅でおとなしくしていました。 |
四分一:確かにそういう時代でしたね(笑) |
長谷:中高は割とそんな感じでしたね。 |
四分一:でも、勉強はできたんですよね。 |
長谷:成績は良かったけど、ちょっとやんちゃな生徒でした。 |
四分一:部活は何かやっていたんですか? |
長谷:中学はバスケをやっていました。今とは逆で「練習中は水飲むな」と言われていた時代です(笑)。県立の高校に入って、音楽が好きになっちゃいまして、軽音部に入りました。その高校の軽音部は、アン・ルイスや高中正義のバックを務めるようなプロミュージシャンを輩出している部で、高校にしては本気モード、大学の軽音部みたいな感じの部でした。ドラムから何からフルセット揃っていて、アンサンブル室まであるような。新設の高校だったので、吹奏楽部が校歌をまともに演奏できないのに、軽音部は京都のライブハウスとかに出演してる先輩が沢山いたり(笑)。 |
四分一:どうしてその高校の軽音に入ったんですか? |
長谷:草津の友達が同じ高校に入ったことと、やっぱり音楽が好きだったことですね。洋楽の最盛期だったでしょうか、小林克也の「ベストヒットUSA」などが流行ってた頃です。自分も何か音楽をやってみたいな…という、すごいミーハーな考えで入部しました。僕は軽音部史上初の「楽器が1つもできない部長」だったんですが(笑)、1つだけ、才能があった。楽器はできないけど、学校から予算を取ってくるのがうまかったんです。 でもあるとき、大事件が起きました。僕が部長のとき、部員数も増え、ギターをもっと揃えたいということになりました。そこで、「予算では収まらないな」と思い、先に楽器屋にギターを発注してしまって、届いたギターの包装をすぐ剥がして、野球部や吹奏楽部でギターが弾けるヤツにも弾いてもらって…そしたらもう、返品できなくなるじゃないですか。結果、学内の部活の予算の半分近くを軽音が使うことになってしまい、サッカー部が県大会に行けなくなってしまった?という(笑)。 |
四分一:そんなことを仕掛けるとは、肝の座った高校生ですね(笑)。その後、長谷さんは何か楽器ができるようになったんですか? |
長谷:吹奏楽部のように沢山のパートがある編成ではないので、ギター、ベース、キーボード…みんなが自分がやりたい楽器を選択していくと、結局最後には、ボーカルが残るんです。歌を歌いたいというより、楽器をやりたいという部員が多かったので、僕はボーカルをやることになるんですが…。ところが、演奏がうまいメンバーからいいアンプを取っていくので、僕のところには小さなアンプしか残らない。結局、「ボーカルの声が全く聞こえないバンド」になりました(笑)。他にはRCサクセションのコピーをやってるバンドとか、外タレ専用バンド(ジェフ・ベックやりますみたいな)とか、複数のバンドが部内にありました。 |
四分一:その音楽漬けの高校時代から、大学に進学されるんですが、同志社大学でしたよね? |
長谷:はい。大学では、アイセックという団体の活動という、全く違うことに夢中になりました。元々は第二次大戦の後ヨーロッパで、学生がいろんな国を復興させるため、違う国の企業に人を送って研修をさせるということから始まった組織です。 ◆ 事務局補足: https://www.aiesec.jp/ より AIESEC(アイセック)は、海外ボランティアや 海外ボランティアプログラムなどの 主観事業を通して、世界中の若者のリーダーシップを 育むことを目指している グローバルプラットフォームです。1948年にヨーロッパで創設されて以来、「平和で、人々の可能性が最大限発揮された社会」の 実現を目指して活動しています。 アイセックの研修生になると、海外への渡航費・滞在費に加え、お給料も少しいただけると聞き、「海外に行きたい!」という理由で入りました。当時はまだ1ドル210円ぐらいの時期で、学生が海外に行くのは結構大変だったんです。 |
四分一:アイセックを知ったきっかけは? |
長谷:大学に入ったら海外に行ってみたいなと思っていたので、最初はESSを考えたんですが、英語を勉強するけれども海外に行く気配はない。じゃあどこか海外に行けそうなサークルはないかと探していたら、アイセックがあったんです。 |
四分一:どこの大学にもアイセックはあるんですか? |
長谷:ない大学もありますが、当時関西では、京大や甲南なども活動していましたが、同志社はとりわけアイセックが盛んでした。 |
四分一:具体的には、どんな活動をするんですか? |
長谷:例えば京都だと、京都の企業に訪問して、海外からの研修生を受け入れてくれないかと交渉するんです。海外志向があったりグローバル展開されている企業に対し、そういう学生を受け入れることで社会貢献しましょうという提案です。当時、研修権(研修の権利)を沢山取って来る大学が、営業力があって強い大学とされていて、そのために学生なりにいろいろと勉強をし、イベントをして発表をするという機会にも恵まれました。その頃、当時の首相の中曽根康弘の諮問機関が貿易摩擦の解消の為に「前川レポート」を出すなど、日米貿易摩擦が国際的な問題になっており、アメリカのロングビーチ大学と、その問題を日米両方の視点から勉強しようと提案し、堺屋太一さんを招いて講演会を開いたりもしました。日本とアメリカの両方での開催です。 |
四分一:その費用はどこから捻出するんですか? |
長谷: |
四分一:インタビュイー。 |
長谷:基本的には、僕たちが渉外をして企業からの賛助金で講師の謝礼や会場費を集めるんですけど、現地の滞在費は学生の自宅にホームステイで賄いました。当時の京都だと、オムロンさんとか、京セラさん、村田製作所さんなど大手企業から、地元の京都信用金庫さんなどにも賛助いただきました。 |
四分一:そういうところに企画書を作って営業に行くわけですよね? |
長谷:ええ、そうです。非常に勉強させていただきましたね。京都の企業の人たちからも「そんな営業じゃダメだよ」とか「今度ここへ行ってごらん」とか、沢山アドバイスをいただきました。 |
四分一:それって、遊びたい盛りの学生にとって大変じゃなかったですか? |
長谷:そうですね。でも、企業とか普段接点がないので、そういうところへ営業に行くという面白さもあり、また、海外の学生と知り合いになれるというのも大きかったですね。 |
四分一:インターネットやZoomのない時代、どうやってコンタクトを取ってたんですか? |
長谷:国際電話とテレックスです。ものすごい通信費がかかってました(笑) |
四分一:ロングビーチにはどれぐらい行かれてたんですか? |
長谷:ロングビーチに滞在したのは10日間ほどだったんですが、せっかくなので1ヶ月ぐらい前に前のりで入り、約1ヶ月かけて東から西へグレイハウンドで米国を1人で横断しました。大学2年の2月~3月の話です。当時、NYは一番治安が悪いとされていた時代でした(笑) |
四分一:実際に米国に滞在して知ったということなどはありますか? |
長谷:米国にホームステイし、向こうの学生と仲良くなって、日本の学生との大きな違いがわかりました。生活・文化の違いもそうですが、アメリカはバイトと奨学金で学費を全て賄ってる学生が多かったという点です。裕福でない家庭の子は、ほぼそうやって大学に通っていました。 |
四分一:米国人の考え方で衝撃を受けたことなどありますか? |
長谷:地域による違いなんですが、東海岸の人って、アジア人に対してすごく厳しいと感じました。日本が経済でものすごく強くなってきて、腹立たしい想いもあったのかも知れません。トラブルになりそうな時、「俺カラテできるぞ」で逃げたことが(笑)。逆に、日系人も多い地域のせいか西海岸の人々はとてもフレンドリーで、逆にNYに行ったことがないという人も沢山いました。グレイハウンドで行き先を間違えて乗った時、バスの運転手が、ルートを逸れてわざわざ寄り道してくれたり、特に、ブラックの方がアジア人に優しかったように記憶しています。1つの国で黄色人種に対する考え方がこれほど違うのかと、驚きました。海外も初めて、1人旅も初めてという米国の旅だったので、正直自分のテンションも上がってたんですが、でも、NYではやっぱり怖くてずっとポケットでナイフを握って歩いてました(笑) |
四分一:大学時代はそのアイセックの活動がメインだったんですか?その他のバイトとかは? |
長谷:アイセックの活動は4年間通じて行い、同志社の副代表をやっていました。アルバイトでは、その頃流行ったカフェバーの経営をしていたことがあります。大学3~4年ぐらいの頃です。滋賀県にもあったんですよ、カフェバー(笑)。インテリア会社の社長が自宅の隣に作ったカフェバーに最初は雇われで入りました。そのうちオーナーがめんどくさくなってきて、「お前らやる?」ってお店を任されたんです(笑)。お客さんの社会人の方にも可愛がっていただきましたし、「お店をやる」という初めての経験が面白かったので続けました。 |
四分一:儲かりましたか? |
長谷:いや、普通にお店を開けているだけじゃ儲からないんですよ、カフェバーって。じゃあ何をやるかというと、土日にイベントをやってパー券を売るんです。それでもランニングと差し引きでトントンって感じでしょうか。 |
四分一:それってどんなイベントですか? |
長谷:いろいろ試したんですが、「こんなお酒を飲みませんか?」のイベントや、「女性がこれぐらい来ますよ」で男性客を呼ぶのが一番儲かったですね(笑)。月~金はお客さんに営業活動をして週末の集客を行い、土日にイベントで儲ける。その他、お酒の知識とか作り方など知りたかったので、そのへんも勉強になりました。今でもカクテル作りはうまいですよ! |
四分一:そして、就職活動となるわけですよね。どんな感じで? |
長谷:やっぱり海外志向があったので、商社を受けていました。当時は証券会社も海外アピールをしてたので、証券も受けていたように思います。英語は「なんちゃってイングリッシュ」です、日常会話はできますが。 |
四分一:リクルートとの出会いは? |
長谷:2時間3,500円の大学生意識調査みたいなアルバイトをしたのがきっかけですね。今から思うと乗せられたのかも知れませんが「頑張れば海外でビジネスできるかもよ」みたいなことを言われ、その気になりました(笑)。日本の学生を海外に就職させるとか、海外の学生を日本に呼ぶとか、アイセックの活動を通じてHRビジネスにも興味がありますという話もしていて、今でいうキャリアイベントのような事業に関われたらいいなと思って志望しました。 |
四分一:そして、リクルートに入社が決まって… |
長谷:僕が内定者だった時に、あのリクルート事件が起こったんです。内定式から自宅に帰ってみると、普段ニュースを観ない親父がTVの画面を食い入るように観ていたんです。それが、議員が賄賂を受け取っているという衝撃的な隠し撮り映像で、親父が「こ、これ、お前が内定してる会社じゃないの?」って(笑)。 |
四分一:実際にリクルートに入社してどうでしたか? |
長谷:まず、最初の1年半は京都で、その後銀座の本社に異動になりましたが、ずっと人材開発部で入社から4年半お世話になりました。 |
四分一:当時のリクルートは、まだ採用は絞ってなかったですか? |
長谷:僕らの1つ上は1,100人、僕らの代は計画では1,500人採用予定だったんですが、最終的には1,000人ぐらいでしたね。その後数年も4~500人は採用してました。リクルートが採用を激減させるのはもっと後ですね。僕が辞めるあたりです。 |
四分一:リクルートから独立したきっかけは? |
長谷:元々独立しようという気はあったんですが、採用がどんどん絞られていく中「このままでいいのかな」という気持ちにもなり、同時に、自分は現場のことを身を以って体験していないことに気付き、社会人としてもっと営業の経験を積みたいと思いました。 そんな時、京都の時に内定者アルバイトをしていた時の先輩の会社に誘われ、リクルートを卒業し、そこで営業をすることになり、2年ぐらいお世話になりました。パンフレットなど、制作物を作る会社の営業だったので、求人広告以外の営業も経験しました。outdoorというバッグの会社の広告で、カリフォルニア州の工場まで撮影に行ったこともあります。アメリカ感を出すために現地の工場の人をモデルにしようとしたら、カメラマンの仕事が遅いわ工場の人は帰るわで、なぜか日本人の僕がモデルに…ということがありました(笑)。 |
四分一:で、その会社の後、どうするんですか? |
長谷:元々独立したかったんですが、営業をしてみてわかったことがありまして、「人事部」にアポを取ってビデオやパンフレットの営業にいくと、大体「予算がない」という回答でNGになります。これって「日本の人事は予算の使い方が間違っている」ということなんです。ほとんどの人事部が「人を採用する広告のために予算を使っている」。なのに、結局いい人が採れないので予算が無駄になっているんです。ただ単に「いい人を沢山集めたい」って(笑)。リクルートにいた頃の経験で言うと、最初から本当に欲しい人をちゃんと絞って、「どういう人を取るのか」を明確にすれば、ターゲットがはっきりし、どの大学?どのサークル?地域性は?という点で絞り込みができるはずなのに、なんてもったいないお金の使い方をしてるんだろう…と。求人広告に頼らない方法っていくらでもあるじゃないですか!こういうことを、企業の人事部で滔々と語っていくと、いつしか「長谷さんとコンサルティング契約をしたい」と言ってくださる方が増えていき、今の仕事の原点となりました。リクルート時代に学んだ「人を採用するプロセスで感じたこと」がお金になるんだと分かり、1995年に思い切って独立を決めました。 |
四分一:今の会社の前身、株式会社シンカを設立されるわけですが、社名の由来は? |
長谷:「シンカ」とは、ヴァリュー(真価)とプログレス(進化)で、顧客に価値のある採用のサービスを提供しますということと、会社自体が進化していくという意味を込めました。 |
四分一:シンカさんはインターンシップの発祥企業のイメージですね。 |
長谷:やっぱりアイセック時代の話に戻るんですが、「学生を企業に活かす」ということが、企業にとってもいいことだと思っていました。当時、一般的に「インターン」というと、お医者さんという認識でした(笑)。それをビジネスにする気配が出てきた頃です。2001年に大阪大学の佐藤大吾くんという学生起業家と意気投合し、彼にシンカの役員になってもらい、彼と一緒にインターンシップを世に広げていくことを始めました。東京ビッグサイトを借りてインターンシップイベントを開催したり、そういうイベントを始めたのはうちが最初だと思っています。 |
四分一:何社ぐらいが参加していたんですか? |
長谷:最盛期は3-40社ぐらいの企業に参加いただいたような気がします。インターンシップについて、ただ単に学生を集めるというだけでなく、インターンが採用を成功させるというふうに、がっつりプログラムから作る会社はまだなかったので、うちがそのはしりだったかと思います。 |
四分一:今でもそうですが、「何人集まったか」が注目されがちですよね。そこで満足しちゃうというか… |
長谷:「集める」ことにパワーとお金を投じても意味がないんです。大事なのはその学生に何を理解してもらい、入社意欲や志望度合いを高めてもらうかなんです。 |
四分一:でも、多くの企業はなかなかそこに目を向けず、表面的な採用活動をやっているように見えますよね。 |
長谷:例えば、求人の募集でも「いい会社に見せたい」とお化粧をする広告は本質的でないと思います。それは、本当に欲しい人を集めることにつながらないんです。シンカの時に僕がコンセプト・ワードにしていたのが「アイデンティティをはっきりさせる=アイデンティファイ」という造語でした。「お宅の会社がどういう会社なのかはっきりさせましょう」「何が良くて、それは誰にとって良いのか」。リクルートの例で言えば、「営業力が身に付く」「独立したい人に向いている」「但し、飛び込み営業もします」「でも営業をしたいならやっぱりリクルート」っていうのがはっきりしているじゃないですか。自社が本当に大事にしていること(アイデンティティ)を突き詰めて考えていかないと、それに合ってない子が入社し、すぐに辞めることになってしまいます。 |
四分一:どうしてそこと向き合わない企業があるんでしょう? |
長谷:1つは、媒体会社の提案も含め「とにかく人を集める」というやり方が当たり前だという通説があると思います。それ以外の方法を知らないというか。もう1つは、やっぱり「人数が集まらないと人事が不安」なんでしょうね。でも、そこに共感していただける会社は、やると確実に効果が出るんですよ。今度の「採用の学校」でも、そのあたりを皆さんにお伝えしていきたいです。 |
四分一:採用をやれと会社に言われてやっているのに、そのやり方を知らないという方、沢山いらっしゃると思います。業務をこなしている中で薄々は感じているんだけれど、上司からも回答が得られず確信が持てないような。 |
長谷:採用の業務は、概念やコンセプトだけでなく、事例が大事だと思っています。「成功事例がある」というのは一番説得力があると思うので。7月からの「採用の学校」では、守秘義務は守りつつ、できるだけ具体的な「事例」を入れていきたいです。ものすごい参考になると思います。 |
四分一:今、「採用の学校」の話になりましたが、長谷さんが「こんな人に受けてもらいたい」というのはありますか? |
長谷:一番ベーシックな、「採用って仕事をまだ始めたばかりで何もわからない」という人は、ぜひ!真っ白な状態の方が勉強していただきやすいと思います。逆に「ずっと採用をやってきているんだけど、今までの経験を棚卸して整理したい」という方も、来ていただきたいです。 でも一番は、僕がそうなんですが、「採用の仕事が好きな人」がいいですね。僕は本当に採用の仕事が好きなんです。採用の仕事って、会社とヒトの将来を作る仕事ですよね。そういう仕事に携わらせていただけるってすごく幸せなことですよ。だから「採用が好きだ!」って方には、ぜひ来ていただきたいと思っています。 |
四分一:私も、採用ってその人の人生や企業の将来に関わる仕事だと、だんだんわかってきたところです。企業の採用のお手伝いをすることは、企業の将来を決めることでもあるって、今のToBeの仕事を通じても感じています。そうだ、長谷さんの今の会社のお話を全然聞いていませんでした(笑) |
長谷:2009年に僕が設立をした株式会社ディリゴは、採用で困っておられる企業様に対し、人材要件をはっきりさせること(さっき言ったアイデンティファイ)で、「まずはどういう会社なのかはっきりさせて、どういう人を採用するか、どのように採るのかを決めたら、やるべきことがすぐ決まります」とご提案するビジネスを行っています。 |
四分一:「採用の学校」でもそのノウハウをぜひお伝えください。今日はありがとうございました。 |